ノア・スミス「現代の大学業界のどれくらいがムダなんだろう?」(2024年1月7日)

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ズキズキする問いだけど問わないといけない

この何年ものあいだ,ぼくは政治的な右派の批判者たちから大学制度を擁護してきた.たとえば,2017年には,大学で行われている活動の一部にかかる税金を引き上げようという共和党の計画に対して,こんなことを書いた

アメリカの大学制度は,この国でいまも経済的な長所でありつづけている屈指の重要制度だ.製造業が中国に行ってしまっているなかでも,アメリカは高等教育で優勢を維持している.アメリカ各地の大学がもたらしている研究とテクノロジーの成果や大学院卒の高技能労働者たちは,知識産業がこの国に集積しつづけている重要な要因だ――3つだけ挙げれば,シリコンバレーや製薬業や石油サービス産業がより低い労働コスト目当てに国外に逃げ出さずにアメリカ国内にとどまっている理由の一つは,ああいう高技能労働者の存在にある.高等教育を劣化させれば,アメリカは最先端産業にとっての魅力が低下し,世界経済にとっての重要度も下がるだろう.

この点はいまも正しい.ただ,あれから7年経って,ぼくは次の点をいっそう強く思うようになった.アメリカの大学制度にはより大きな外部監査が必要だし,さらには,さまざまな問題点を改めるために批判も必要だ.そうしなければ,上記の長所も事実でなくなってしまう.

アメリカの大学に対する信頼は低下し続けている――共和党支持層にかぎらず,民主党支持層でも低下してきている.

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Source: Gallup

ハーバード大学で先日おこった剽窃スキャンダルで,この論議が沸騰している.ジョシュ・バローは,「大学はもはや水平でない」というタイトルの挑発的な記事で,こう論じている――問題は,蔓延する不誠実を大学が受け入れてしまっている点にある.

私の見立てでは,問題は再現性の危機から始まっている(…).私が大学で学んだ[社会心理学の]研究は,次々と反駁され続けている.再現実験は失敗し続け,研究では p値ハッキングがしばしば行われて,さらには不正データに基づいて研究が行われていたりもする.(…)ダン・アリエリーがはたしていつまでデューク大学で教授で居続けるつもりなのか首をひねているのは私一人ではないはずだ.(…)

数週間前に,歴史家ジェニ・バルストロウドによる論文について,マット・イグレシアスが記事を書いた(…).1700年代後半にイギリスで育ったやや重要な冶金技術は実のところ黒人ジャマイカ人の冶金技術者から盗まれたものだと,バルストロウドは主張した(…)バルストロウド論文の難点は,その主張を支えるまともな論拠をまったく提示していない点にある.

また,バローは雇用慣行や学生受け入れなどキャンパスライフのさまざまな事柄にみられる不誠実も論じている.ただ,不誠実な研究に関して彼が言っている論点こそ,ほんとの急所を突いてる.保守系の批判者達からぼくが大学制度を擁護するときには,きまって,大学で行われている研究を論拠にしてきた.大学というとついつい教育面の機能で考えられがちだけれど――だって,たいていのアメリカ人が生涯で大学制度と関わりをもつのは教育を受けるときだものね――おそらく,大学の研究機能の方がぼくらの国にとっていっそう重要だ.過去40年にわたって,各地の大学が担う研究の責務はいっそう重くなってきている:

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そうした研究は,人類の知識を増やすうえできわめて大事だけれど,それだけではなくて,民間部門を強化するのにも欠かせない.Tartari & Stern (2021) の研究によると,政府による大学への研究助成金 160万ドルごとに産み出されるスタートアップ価値は最終的に5000万ドルにのぼるんだって!

でも,それと同時に,並行して起こっていることがある: 研究への支出との比較でみた全要素生産性成長で計った研究の生産性は,安定して下がってきている.

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だからって,もはや研究にはお金を出す価値がなくなったってわけじゃない(価値はある).それに,この傾向は大学だけのせいってわけでもない.大学が研究の主な場となるずっと前からこの傾向ははじまってるからね.もしかすると,たんにいろんなアイディアを発見するのが昔よりも難しくなってきてることによる部分が大きいのかもしれないし,あるいは,より意義の小さい(けどやるだけの値打ちはある)アメリカで研究プロジェクトに投じられるお金が増えてきたせいなのかもしれないし,あるいは,研究の成果が商用利用されていないせいなのかもしれない.

ただ,いま研究の生態系で大学が果たしている基軸的な役割や,心理学や医学その他の実証的な分野で起きてる再現性の危機を考えると,かつてよりもずっと意義の小さい研究や明後日の方を向いた研究を産み出しすぎることで,アメリカの大学が国のリソースを無駄遣いしているかどうか検討するのは,理にかなっている.

これはズキズキする問いではある.大学制度を経験してきた人間や,大学で働いてる人たちや,友人や家族が大学で働いている人たちは,(かくいうぼくも含めて)あまりにも多い.それに,研究の生産性と無関係な文化戦争がらみの理由で大学の内部をガタガタに破壊したがってる保守派の脅威が潜んでいるのを踏まえて,進歩派の多くが居心地悪く感じている問いでもある.でも,ともかくこの問いは訊ねる必要がある.なぜって,各地の研究大学に大量に結集している才能は,アメリカでもとびきり貴重なリソースだからだ.それに,ぼくらがつくりだしてきたインセンティブ制度がそういうリソースをうまく使っているのかどうかも考える必要がある.

ムダを計測するのはほんとに難しい

研究のムダを数量にして測るのはものすごく難しい.ひとつの考え方として,論文公表から応用までの研究の産出プロセスの各段階について考える手がある.Marc Andreessen は,こんな分析案を考えてる

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学術論文の品質ファンネル
1. 執筆された論文の総数
2. (1) のうち,研究結果が再現された論文の割合
3. (2) のうち,読まれた論文の割合
4. (3) のうち,引用された論文の割合
5. (4) のうち,急進的な政治に消費されなかった論文の割合
6. (5) のうち,剽窃のなかった論文の割合
7. (6) のうち,研究結果に意義のあるものの割合
最終的な数はいくつになるかな?

正直に言うと,ぼくがほんとに気にかけてるのは,彼が挙げてるなかの最後の項目だけだ.その理由を説明させてもらおう.

論文が急進的な政治事情に影響されている件については,ぼくは心配してない.たしかに,政治が研究をむしばむことはある.でも,そうだとしても,その害毒・歪みは〔研究を評価する〕他のフィルターで露わになるはずだ.それに,剽窃についても,要注意項目として心配していない.たしかに剽窃の事案があると,おそまつな倫理基準が露見するし,処罰もされるべきだ.でも,研究結果そのものが他の論文から丸パクリされたのでないかぎり(結果を説明するのに使われている言葉だけが丸パクリされているとしても),それは研究の労力が無駄遣いされているしるしではない.

それに,論文が引用されているかどうかを計測するということは,どの論文が引用されずに読まれているかを実際に計測する必要はないということだ(どのみち,後者は計測困難だ).引用されることなくもっぱら産業で利用されている論文があってもおかしくないけれど,そういう事例はきっとかなり珍しいはずだ.

引用されてる論文はどれくらいあるんだろう? よく,「論文の 50% は引用されずじまいに終わる」という主張を見聞きする.「90%だ」なんて話もある.実は,これはずいぶん過大な推計だったりするんだけど,かつては事実だった.それに,人文学ではいまもこれは事実らしい

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ここには筆頭著者による自己引用は数えられていない(ただし,他の共同著者による自己引用がデータを汚染しているおそれはある).自然科学を対象にしたもっと近年の分析を見ると,あやしげなオープンアクセス学術誌を数えなかった場合に,引用されていない論文の数はさらに少なくなっている.

というわけで,どうやら引用されていない科学論文の数は小さくて,しかもだんだん少なくなってきているらしい.ただ,これを踏まえると,成功を測る尺度として引用回数が有用なのかどうかという点について,警戒しないとおかしい.科学での引用レートがどんどん上がってきていることから,論文がどんどんよくなってきてると考えていいものだろうか? 全体の研究生産性がガタガタになっていることを思えば,疑いを抱く理由はいろいろとある.なにより,研究者の人数は大幅に増加しているのだから,引用をする人たちの頭数は前よりもずっと多くなってるわけだ.すると,どんな論文でも少なくとも一回は引用される確率は上がるよね.

第二に,最大限に引用する文化がこうした分野でしだいに発達してきている可能性がありそうだ.誰もが他の誰も彼もを引用するように期待される文化が育っているおそれがある.なにより明らかな仕組みは,査読制度だ.査読では,掲載許可を与える前に「もっと多くの論文を引用するように」と査読者が要求することがすごく多い(それには,査読者本人の論文も含まれる).査読が普通の営みになったのは1970年代で,そんなに遠い昔じゃない.人文学で引用レートがすごく低い理由は,この文化がまだ発達していないからってこともありえそうだ.人文学でもやたらとお互いを引用しはじめたら,彼らの引用レートも急上昇するだろう.

最後に,どれだけの論文〔の実験結果〕が再現されているんだろう? 分野や学術誌や時期によってまちまちだけれど,いま利用できる最良の推計では,半分をわずかに下回っている.(臨床試験だと数字がもっと低くなる.)

これはもうちょっと高くないと困る.心理学者や生物学者たちが〔再現実験の〕失敗率をどうにか下げようとあの手この手を探っているのも当然の動きだ――たとえば,事前登録方式,コードの透明性,結果を伏せた査読〔研究方法やデータ分析の妥当性のみを評価する査読方式〕,統計的有意性の基準引き上げなどがそういう対策だ.ただ,実験結果が再現されない論文の割合が半分になったとしても,1960年代から研究生産性が8分の1にまで下がっているのを逆転させる上では相対的にわずかなものでしかないだろう.それに,実験結果が再現される論文に比べて再現されない論文の注目度は低いと見込まれる.ということは,みんなが思っているほどああいう論文の害は大きくないかもしれない――結果が再現されない論文の大半は,おそらく有名ではない.マーク・テシェール・ラヴィーンのアルツハイマー病研究ダン・アリエリーとフランチェスカ・ジーノによる不誠実性に関する研究みたいに広く喧伝された研究とはちがう.

それに,すごく多くの研究分野では,研究の再現が単純に不可能だったりする.理論研究をどうやって再現する? 哲学論文や民族誌の再現なんてどうすればいい? 観察データを用いた研究ですら,再現できるのはその一部でしかない.なぜって,特定のデータセットを収集できるのは一度きりだからだ.

読まれないまま置されてる大量の論文の存在や再現性の危機はどちらも懸念されることではあるえけれど,どちらも,主な心配事ではなさそうに思う.大学業界のムダに関してぼくが主に心配していることは――そして多くの学者たちが主に心配していることは――そこじゃない.「価値ある研究結果がどれくらいあるのか」という点こそが問われるべき核心部分であって,引用に関するデータや再現率は,この懸念を和らげるのにほとんど関わりがない.

というか,科学論文の有用性を計測するのは,すごく,すごく難しい.不可能ってわけじゃない――この研究があっちの研究に引用されて,それから特許がとられ,そこから製品化されて市場で成功を収めたという筋道を追跡していくこともできる.でも,そういうことを大規模にやってのけた人はいまのところ一人もいない.それに,多くの研究が目指しているのはそもそも「製品化されて市場で成功を収める」ことじゃない――社会科学でなされている研究の多くは,どうやって政策を変えるかを目指しているし,人文学の研究の多くはぼくらの文化全体をどうやって豊かにするかを目指している.他の研究,たとえば宇宙論だったら,この宇宙に関する人類の好奇心を満たすことがその唯一の産出物だ.

というわけで,公開された研究のうちどれくらいがムダなのかっていう問いにくっきりした定量的な答えは得られそうにないと思う.ただ,大学制度に存在するおかしなインセンティブの一部について考えることはできるし,そうしたインセンティブによって役立たずの研究がこんな風にして増えているかもしれないと考えることも出来る.

どの研究がすぐれているって誰が決める?

ヒモ理論やリアル・ビジネス・サイクル理論の研究者には失礼ながら,今回も例に挙げさせてもらおう.

「このヒモ理論こそが重力と量子力学を統合する《万物理論》になってくれる」とかつて物理学者たちは望みを抱いていたものの,2000年代前半にぼくが学部で物理学専攻だった頃には,すでに多くの人たちのあいだで,ヒモ理論が失速している様は話題になっていた.卒業してまもなく,ヒモ理論は反証可能な予測を立てられず行き詰まっていると論じる2冊の本が世に出た――リー・スモーリンの『迷走する物理学』と,ピーター・ウォイトの『ストリング理論は科学か』の2冊だ.それから20年にわたって,ヒモ理論の研究者たちは防衛陣地をかためて批判者たちからヒモ理論の擁護を続けた.典型的な擁護論では,「批判者たちはヒモ理論そのものを自ら研究していないのだから,これを批判する用意が足りていない」と論じられていた.

ウォイトは何年にもわたって自分のブログに対してなされたこういう攻撃を根気強く記録しつづけた.そのおかげで,エリートたちの学術分野の高尚きわまる最深部で展開されていた社会の力学をとらえた愉快で啓発的な年代記ができあがった.今日,ヒモ理論についてなにか意地悪いことを言っても,憤慨してわざわざその人を激しく批判しにやってくる物理学者はめったにいない.もっとも,おうおうにして,今日の批判は「いまどき(実際の)ヒモ理論をやってる人なんていないも同然でしょ」というかたちでなされるんだけど.

この顛末を目にしたには,ぼくにとって啓発的な経験だった.というのも,ウォイトのブログを読む一方で,当時のぼくはちょっとばかりこれと似たことをマクロ経済学でも目撃していたからだ.「リアル・ビジネス・サイクル理論」と呼ばれるタイプのモデル(RBC理論)は,2004年にノーベル賞をとったものの,主流のマクロ経済学では人気が落ちていく一方で,ニューケインジアン理論がこれに取って代わっていった.(なぜなら,RBC理論は現実にありそうにない仮定に立脚していて,しかもデータにうまく適合していなかったからだ.) でも,そんななかでも,ごく一部の大学の学部では RBC タイプの論文を発表する研究者たちがいたし,とても熱心にそういう論文を掲載する学術誌もわずかながら存在していた.RBC 理論を擁護する人たちは,RBC を批判する部外者たちに対して,意地の悪い修辞的攻撃で対応していた(かくいうこのワタクシも,一度ならずそういう攻撃を体験したことがある).

こういう出来事をへて,「学者というのは自分の理論や分野が挑戦を受けたときには防衛陣地に閉じこもりがちなんだ」ってことをぼくは学んだ.挑戦を受けたとき,学者たちはよくこんなことを言う――「部外者たちはこの分野を理解できていない.だから,批判するだけの根拠がない.」 部外者たちに委ねられてる役割はただひとつ,学者たちへの給料や研究助成金というかたちで小切手を送り続けること,というわけだ.

でも,こういうあり方からは,ただちに自明な問題が生じる――ある研究分野で働いて生計を得ている人たちは,その分野を自ら批判しないでおくインセンティブに事欠かないって問題だ.彼らの給料も,それよりいっそう大事な彼らの名声も,彼らが重要な主題を探求して素晴らしい成功を収めつつあると世間を納得させられるかどうかにかかっている.だから,ある分野の内部にいる人たちにしかその分野を批判することが許されないのだとしたら,批判が起こりにくい方に偏るのはとても明らかだ.

というか,似たような力学は大学業界のいたるところで働いているとぼくは思う.たとえば,企業合併の影響についてどこかの経済学者が論文を書いたとして,その論文が学術誌に掲載される値打ちがあるかどうかを評価する仕事は,誰が引き受けることになるだろう? 企業合併の影響について論文を書いてる他の経済学者たち,だよね.その論文がどこかの学術誌に投稿されたら,学術誌の方は同じ下位分野で研究している学者たちに査読を依頼するはずだ.ときに,その下位分野の外部にいる査読者も見つけようとすることもある(たいてい,「査読者3」とステレオタイプ化される).でも,その「査読者3」は,たいていその論文をあまり厳しく批判しない.なぜって,その下位分野についてよく知らない部外者で,分野について学ぶとなると,時間をたくさんとられてしまうし,査読に時間をかけても対価は払われないからだ.

最悪の場合には,事実上の引用談合が出来上がることもある.引用談合 (citation rings) とは,一種の詐欺で,研究者たちの一団が示し合って,お互いの評判をかさ増しするためにお互いの論文を引用し合う.ただ,明示的な談合がなくても,査読のインセンティブ構造からこれと似たことが生じることもある.たとえば,ジョーとサラが二人とも企業合併の影響について研究しているとしよう.サラがよく自分の論文の査読を担当しているのをジョーは知っているし,ジョーが自分の論文をたびたび査読しているのをサラは知っている.このため,相手により好意的な査読をしてもらえるようにお互いを引用するインセンティブがこの二人には生じている.著者が査読者の論文を引用しましょうかと明示的に持ちかけなくても,これは成立する.

下位分野が小さければ小さいほど,この種の事実上の引用談合に弱くなる.ある主題を研究している研究者が10人~15人しかいないと,誰が自分の論文を査読するかたいていわかってしまう.学術業界が超専門分化を進めるほど,研究文献は少なく狭まっていき,この種の身内どうしの称賛はいっそう起こりやすくなる.

引用談合がない場合にすら,ゲートキーパー効果がある.誰か新参の研究者がやってきて,「やあ諸君,キミらみんな間違ってるよ,企業合併ってのは実際にはこういう風に機能するんだがね」なんて言い出したとしよう.かりにその言い分が 100% 正しかったとしても,きっと査読者はこの新参者の論文を却下してすませるだろう.実際に,このゲートキーパー効果が強力だという証拠がある.Azoulay et al. (2019) の研究では,著名な生物学者が死去するとその人の研究分野が活力を増してグイグイと研究が進歩できるようになるのを見出している:

卓越した生命科学者たちが早死にしたときに当該の分野の活力がどう変わるかを本稿では検討する.スター科学者が死去した後,〔その科学者と共同執筆していた〕共同研究者たちによる論文の流入は減少する一方で,〔スター科学者と直接のつながりがなかった〕その他の研究者たちによる論文の流入は顕著に増加する.こうして急増した部外者たちによる論文はそれまでと異なる文献を参照し,圧倒的によく引用されやすい.スター科学者の存命中には当該分野の統率体制に部外者たちは進んで挑もうとしないように見受けられるが,その指導者が死去すると新しい方向へと当該分野が発展する機会が生まれ,知識の最前線がそうした方向へ前進する.

つまり,科学の進歩を図るなら,強制的に有名な老科学者たちに早期引退してもらうのがおそらく有効ってことだね.

ある程度までは,専門知がものを言うときにはいつでもこの問題が生じる.敵国を抑止するためにアメリカは防衛支出を増やす必要があると国防省が警告したら,どうしたものだろう? 「国防省はお金をせびってるだけだ」と想定して,戦争に負けるリスクを負おうか? それとも,「国防省はものをよくわかって発言しているにちがいない」と想定して,年々,予算を膨れ上がらせるリスクを負う?

これは,「専門家への捕らわれ」という問題だ (“expert capture“).これは,きまって厄介な問題になる.たいてい,最善の解決法は,関連する専門知識をいくらかもっている部外者を活用することだ.アメリカの国防省の話でいうと,中立国の軍から諮問役を雇って,防衛支出を膨らませない方がいいのかどうかを評価してもらうといい.マクロ経済学者たちが正しい理論を使っているかどうか評価するには,貿易経済学者たちにやってもらえばいいわけだ(ポール・クルーグマンがやったのは,ちょうどこれに当たる).他の分野でも同様だ.

とはいえ,大学制度を対象にこれを体系的にやる方法はない.超専門分化が続き,学術分野それぞれもいっそう細かな派閥に分化していくなかで,それぞれの下位分野で研究者たちが事実上の結託をして役立たずのゴミに認証印を与え合っていないか定期的に検査する対抗手段を開発することがますます重要になっている.

ある研究分野がもはや不要になったときになにが起こる?

2021年に書いた記事で,科学は金脈探しにちょっと似ているかもしれないという仮説を書いた:

発見や技術革新がなされるどの分野も,金脈みたいなものだ.地表にいちばん近い金脈が,いちばん採掘しやすい.もっと深く掘りすすめば,その分だけ,採掘は難しくなる.でも,そうしているうちに,たまに新しい金脈を掘り当てることもある――そしたら,再び急速に楽々と採掘が進む.ただし,掘り進む方向は変わる.

この種のプロセスをたどることで,科学の進歩は,〔発見や発明の加速・減速を繰り返す〕S字曲線がいくつも連なっているようなものだ.曲線どうしが部分的に重なることもあるけれど,発見のなされる側面はそのときどきでちがっている.

一例として,人工知能の分野を引き合いに出した.25年前,人工知能は隅っこの小さな分野だった.それがいまではものすごい勢いで拡大している

新しい分野の登場は,こうやってなされる科学の進歩には欠かせない.十分に長いスパンで見れば,どこか特定分野での進歩も,いずれは必ず減速する.成し遂げやすい発見や発明が掘り尽くされるからだ.この〔科学研究という〕機械が突進し続けるのは,ひとえに,新しい分野が次々に登場すればこそだ.

でも,すっかり採掘しつくした古い方の研究分野はどうしたものだろう? おそらく,効率のいい方法があるとしたら,そうした分野から新しい分野に研究者たちを移すことだろう.その移転を歓迎して新しい挑戦に熱意を上げる人たちもいるだろうし,前のセクションで言及した防衛陣地を固めて変化の必要に抵抗する人たちもいるだろう.

こうした変化に抵抗するすごく強力な要因は,他にもありそうだ.その要因とは,制度の慣性だ.テニュア制度があることで,教授たちは自分たちが望まないなら分野を変化させなくていい.それぞれの分野の学術誌も,同じ主題でえんえんと論文を掲載しつづける方をのぞむだろう.大学のあちこちの学部内部にある強力な派閥は,自分たちの研究を引き継ぐ知的継承者たちの採用を続けるべきと主張し続けるだろう.

高エネルギー物理学でこういうプロセスが働いていると物理学者の Sabine Hossenfelder は考えている.彼女の主張によると,新しい未発見の素粒子を予測する理論を物理学者たちが次々にでっちあげ続けているのは,そうした素粒子を探索するべくますます巨大化する一方の粒子加速器設備への政府支出を正当化するためだという.それなのに,そうした加速器ではなんら新しい素粒子は見つけられていない.

一部の物理学者たちはこれを「悪夢のシナリオ」と呼んでいる.というのも,この状況では,次にどこに向かうべきかの明瞭な手引きがないままになってしまうからだ.「でも,実験の観測結果を理論がすべて説明するなら,それのどこが悪夢なんだろう? ただ勝利を宣言して,量子情報理論なり固体物理学なり核融合なりに取り組む対象を切り替えればいいのでは?」実は,社会がいちばん必要としているものではなく自分たちがそのために雇われた物事に取り組み続けたいという強い欲求を多くの学者たちはもっている.

下位分野をおしまいにするのが難しいとなると,学部まるごと一つをおしまいにするのなんて,はるかに困難だろう.たとえば,社会学という分野全体があらかた採掘されつくしたとしよう――興味深い知見や実証的な発見の大半がすでに掘り尽くされて,まだ残っている重要な問いがどんなものであれ,それは比較的に少人数の実証経済学者や人類学的な民族誌研究者や社会心理学者によって手がけられうるとしよう.(社会学者のご同輩におかれては,ぜひとも,ぼくん家を燃やしにやってくるまえに,これはあくまで架空の話だってことをご理解いただきたい).このとき,移行はどんな風に進むだろう? この社会学部の全体に存在意義がなくなっていることを大学行政側に納得させなくてはいけなくなるだろう.これは,無理難題だ.

それに加えて,「社会学は専攻する値打ちがない」ってことを学生にも納得してもらわないといけなくなるだろう.2021年に書いた記事では,若い教授たちがやってるのは実はシグナリングだっていう研究をいくらか紹介した.学部生の教育を任せられるのに十分なだけ自分の研究分野を知っていると証明するためのシグナリングだ.

研究する教授たちの人数を決めるのは,実際の研究にどれほどのニーズがあるかではなくて,学部教育への需要だ(…).さらに,この需要は学部ごとにちがっている――経済学を専攻する学部生が増えれば,大学はもっと経済学教授を雇用するだろう.

ということは,アメリカの大学制度は――それにおおよそこれを模倣してる他の国々の大学制度も――本質的には教員として雇われている教授たちでいっぱいだけど,その教授たちは研究することで教授職への適性を証明しているわけだ.彼らには論文を出すか消え去るかが迫られているけれど,論文を出すほど興味深いことがあるかどうかは関係ない.それに,学術誌も,研究者たちを仕事から追い出したら学術制度にとって害になると承知していて,全国のテニュアトラックを有する学部に雇われるのに十分な論文を掲載することで若い研究者たちを助けている.

この記事での書いておいたように,これは研究生産性にとってさらなる向かい風になっている.というのも,野心ある教授たちの多くには,安全に漸進的な研究をするインセンティブがはたらいているからだ.ただ,それにすらとどまらず,「しっぽが犬を振り回す」ような格好で,ある程度までは学部生の需要が研究の努力を振り回しているところがある.大勢の学生たちが,「自分は社会学を研究したい」と決めたなら,そのとき,かしこいアメリカ人の多くが社会学の研究に時間を費やすことになる.本当にそんなことをする必要があるかどうかは関係ない.(ここでも,社会学者のご同輩におかれては,なにとぞこれが架空の話だってことをご理解いただきたい)

ようするに,健全な学術業界であれば,新しい有望な分野に向かって急速に動いていくだろうし,あらゆる分野が永遠に成長し続ける一方だと決めてかかって,ただひたすらに学術分野を増やし続けたりはしないだろうと思う.

さて,実りのない探究の筋道にいっそう多くのリソースを学術業界が投じているのを示す直接の証拠があるとは思わないけれど,他方で,研究生産性の低下は懸念すべきだし,現状維持と漸進をよしとする制度的なインセンティブが明らかに働いているという証拠はある.大学も,そこで行われている研究も,ぼくらの国と未来の繁栄にとってものすごく重要だ.でも,大学や研究を神聖な牛として不可侵の扱いをするのではなく,改善を続けるように背中を押したり突っついたりする必要がある.


[アイキャッチ写真:JF Martin on Unsplash]
[Noah Smith, “How much of modern academia is waste?” Noahpinion, January 7, 2024]

要約する
アメリカの大学制度は重要だが、外部監査と批判が必要。信頼は低下し、不誠実や研究の問題が浮き彫りに。研究は重要だが生産性は下がり、政府助成はスタートアップ価値に貢献。大学の役割は教育だけでなく研究も重要。